
ホットケーキを焼こう、と思うのは、いつも突然だ。むしろ、ホットケーキのほうから私を迎えに来ている気さえする。
インドのようだ。
-インドは自分から行くところではなくて、呼ばれるところなんだよ
本当にインドに行くべき人は、例え行こうと思っていなくても、しかるべきときに、何かしらの行かざるをえない理由ができるものらしい。
「まるで、神様に呼ばれているみたいにね」
そんなことを言っていたのは、かつての想い人だった。
幸か不幸か、わたしには今のところ、インドからのお呼びがかかっていない。
だけど、ホットケーキには何度かそんなご縁を感じている。
ふと「明日の朝はホットケーキだな」と思って眠る夜もあれば、何かが降臨したかのように、ホットケーキを焼いて食べる以外にいい案が思いつかないお昼時もある。
料理に関してさほどマメなタイプでもない自分が、「食べたい」よりも先に「焼きたい」という気分にさせられるのも不思議だ。
だからだろうか、ホットケーキを焼くのは、精神修
行のようでもある。
ホットケーキミックスに、卵、牛乳というシンプルな材料を混ぜ合わせ、熱したフライパンで両面を焼く。
たったこれだけの作業でありながら、どうしてこうも毎回、違った出で立ちのものができあがるのか。
焼き目がまだらになってしまったり、真っ黒になってしまったときには己の至らなさを思い、均一なきつね色に仕上がったときには自らの天才性に静かなる賛辞を送る。
2枚目、3枚目と焼くにつれて、徐々に質が向上されていくと、そこに成長を見出したりもする。
友人に話したら「暇なの?」と笑われたことがあるが、暇なんじゃない、ホットケーキがそうさせるからだ。そして、ホットケーキを通して、自己との会話が生まれるのだ。
だから私は、ひとりでホットケーキを焼く。
「たくさん焼きすぎた」という繰り返す過ちへの後悔と、「ホットケーキを何枚も食べる」という背徳的な幸福との間に立つために。
文=山越栞