2021.04.22

【オヤツヲタベツツ】三聖山 慧然寺 前田 宗嶽さん

スナックミー

-今日は、仏教の修行にもある「お掃除」についてお話を伺いたいです。例えば、宗派によって捉え方に違いがあったりするものなのでしょうか?

基本的にはどの宗派でも一緒だと思います。大事なのは「何のために掃除をするか」。身の周りをきれいにするのはもちろんですが、それが結果として自分の心をきれいにしていくことに行き着くのです。

-考えてみれば、学校でお掃除の時間があるのって、世界的には珍しいと聞いたことがあります。日本人の仏教的な考え方が関係しているのかもしれないですね。

掃除というのは本来、人には見えない「陰の仕事」です。そこで徳を積むということが仏教の教えなのですが、これを「陰徳」といいます。

大事なのは毎日すること。我々は土日も関係なく、毎朝起きて寺の掃除をしますが、これはかなりの精神修行になると思うんですね。

続けていくことが、常に自分の心をきれいにすることに繋がるはずです。

-どうしても日常生活でのお掃除って、億劫なものと捉えてしまうこともあると思うのですが…「続ける」という意識が大事なんですね。

億劫に感じてしまいますよね。だからこそ、毎日100%を目指すよりも、重点的にきれいにする場所を日々変えながら続けたらいいんだと思います。

いつも完璧にできたらもちろん素晴らしいけれど、どんな人間でもそれは大変ですから。

「今日はここを掃除しよう」というのを一日ずつ行っていけば、全体的な清潔感を保つことができますよね。

-「今日はサボってもいいかな」という気持ちに打ち勝つには、「お掃除をすれば自分の心を整えることができる」という意識を持っておくといいのかもしれないですね。

私たちの宗派である臨済宗では、掃除は「動く座禅」の一つとして捉えられています。座禅にも「動」と「静」の二つがあって、「静」は静かに座る座禅ですね。一方で「動く座禅」というのは、掃除や薪割りなどのこと。

「静」の座禅だけでは気持ちが陰鬱になっていってしまうこともあるので、動きも取り入れて、心身のバランスを保つのです。

だから、ほうきで庭の落ち葉を掃くにしても、なにか考えながらするとかね。

-座禅となると「無」にならなければいけないと思ってしまいがちですが、考え事をしていてもいいんですか?

いいんですよ。「無」になるのが理想形とは言われていますが、座禅というのはそもそも自分のためにやっているわけなんですよね。

ですから、もし自分が考え事があるときは、静かに座ったり掃除をするなどして考えを巡らせ、そういう時間だと思えばいいんです。

-となると、お掃除が「自分と向き合うケアの時間」になったりもしそうですね…!

そのとおりだと思いますよ。だって、掃除が終わった後に「キモチワル」って思う人はいないでしょ?

きれいになって気持ちいいなあとスッキリした気持ちになるはず。それが掃除の一番の魅力だと思います。

昔の短歌で「掃けば散り 払えばまたも塵積もる 人の心も庭の落ち葉も」というのがあるんです。要は、落ち葉も、人の心も一緒だと。

掃いても掃いても毎日塵は積もるのだから、それを欠かさず掃いていきなさい、という意味です。

-なんだかお話を伺っていくうちに、「毎日ちゃんとお掃除しよう!」という気持ちになってきました。

それはよかったです。掃除って、「ここをきれいにしよう」と思ったスタートの時点で、終わったときのきれいになった景色が先になんとなく見えていて、そこに向かって信じて進められるのがいいですよね。

-たしかに、自分が動けば絶対にきれいになるし、すぐに結果として現れますもんね。

そうです。だから、難しく考えずに「きれいにしたい」と思ってやればいいんじゃないですかね。

今は掃除道具なんかもどんどん進化しているわけで、それらを活用してもいいと思いますし。

ただ、「掃除する場所の素材などをいかに長持ちさせるか」という考えをベースにしておくことは大事だと思います。

例えば畳を最後に乾拭きするのは、カビが生えないようにといった理由があるわけで、昔の知恵なども取り入れつつ「何故そうするか」を知っておいたらいいかもしれません。

でも、不思議だなぁと思うんです。ホコリってどこから出てくるんでしょうね?

一人でここにいても、掃除すればホコリは出てくる。「与えられてるのかな」とすら思います。


三聖山 慧然寺
https://enenji.jp/
東京都江東区深川2-22-11

文=山越栞

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