
ビニールのパックからカラカラになったドライマンゴーを取り出して、「まるで私みたいだな」と思った。
生気がなくって、まるで亡骸だ。ぷるんとしたあの質感は、一体どこへ?こんな形になってしまって、それでも人間に消費されるのかい?かわいそうに。
明日も明後日も、なんてことのない顔をして、朝起きて、化粧をして、電車に乗って、職場に着いて、隣の席の川口くんに聞こえるか聞こえないかくらいの声で「おはようございます」といって、でもたまに川口くんはそれに気づかずに「わーびっくりした、新井さん、挨拶くらいしてくださいよ」となじる。
「こいつ、何も考えずに生きてるんだろうな。お気楽でよろしいな」
と、私が彼に思っているのと同じように、川口くんもきっと
「こんな卑屈そうな性格して、この人何が楽しいんだろう?」
なんて思っているんだろう。
今年の夏はひときわ暑くって、そのせいでよりいっそう、私はドライマンゴーみたいに干からびてしまったんだと思う。真夏の気温は年々高くなっているようで、もう来年のことを考えてウンザリしてしまうくらいだ。
やっと9月になって朝晩の風に涼しさが混ざってきたのを感じ、「生き延びた、助かった」と思った。
”無気力”ということばが頭をよぎるようになったのは、そんな夏の終り頃のこと。それは確実に”無気力”という輪郭を帯びて訪れたので、かえって冷静に受け止めることができた。
20代も後半に差し掛かって、文字通り「妙齢の女性」になった私には、特段の不幸も苦労もない。週に何度か飲みに行って、よしなに美容院に行き、たまにお母さんに電話して他愛もない近況報告をする。
それは、この街にやってきたばかりの私が「夢みたいだ」と思っていた日々で、今では圧倒的な日常でもある。だからだ、きっと。
来年もやってくる真夏の暑さのように、かつて憧れた都会での日々は、当然に繰り返されるものへと変わった。だからこそ、たまに「逃げられない」とすら感じる。
まずいな、とは思いつつ、無気力という自覚は、薄紙を剥ぐように私の心を少しずつカラカラにしていった。
この街で一人暮らしをはじめた頃に、「ドライマンゴーをヨーグルトに漬け込むと美味しい」という情報がネットで流行った。ものは試しと嬉々として実践してみた数年前のわたしは、それをいたく気に入り、今もこうしてたまにドライマンゴーを入手しては、スーパーで買ったプレーンのヨーグルトに埋め込んでいる。
カラカラのドライマンゴーは、一晩ヨーグルトの海に浸すとその水分を吸収して、まるで生き返ったようにぷっくりとつやつやになる。一方でヨーグルトは、マンゴーに水分を吸収された分こっくりと濃厚になり、双方のバランスが最高なのだ。
午前1時。冷蔵庫の前にしゃがんで、ビニールのパックから私みたいなマンゴーを取り出す。450gのヨーグルトのパックに、そのままマンゴーを突っ込むと、橙色の影を残してトロリと沈んでいった。その調子であと2、3個のマンゴーを生き埋めにして、パタンと冷蔵庫を閉める。
午前1時半。布団に入って天井を見つめたまま、じっと、ヨーグルトに浸されたマンゴーのことを考えてみた。今頃ヨーグルトの水分をぐんぐん吸収して、カラカラだったマンゴーはちょっとずつ生気を取り戻しているのだろうか。
ふと、布団をすっぽりかぶっても、ぜんぜん寝苦しくないことに気づく。やっぱり最近、随分涼しくなったようだ。ドライマンゴーみたいな私にも、ちょっとずつ何かが満たされていくような気がした。
なんでもいいや。とにかく明日は、トロンとしたマンゴーヨーグルトを朝ごはんにするのが愉しみ。
そう結論づけて、眠りに落ちていった。
限りなく日常的で、個人的な、それぞれの宇宙。
文=山越栞