
「『断る』って言葉、知ってる?」
また言ってしまった、と思った。
目の前の辻野さんは困ったように笑いながら「頼ってもらえるのは嬉しいので」と抑揚のない声で返事をする。
そんなわけないじゃない。私の気が収まらないことを察したのか、とっさに話題を変え「あっ、以前依頼してくださったデザインの仕様書について、いくつかお聞きしたいことがあるんですが」とパソコンの画面にPDFデータを映し出した。
辻野さんは大学を卒業した4年前、新卒でここに入社した。2年が経ち、デザイナーのもうひとりが産休に入ると、彼女の業務量は倍になった。
会社は新しい人員を補填することもなく、ただ彼女の存在に甘えるばかりだった。
見ていられないのだ。真面目に周りの言うことを受け入れて。言い方がキツすぎることが原因で、一番仲の良かった美優ちゃんに中学生のとき絶交されて以来、言動には気をつかうようになったつもりだった。
それなのに、つい辻野さんを前にすると強い言葉が出てしまう。
彼女から一通りの質問を答え終えると同時に、机の上でスマホの画面がぱっと明るくなる。
「あっ、すみません電話、出てもいいですか?」
彼女が顔にかかった髪を耳にかけると、スマホのカバーケースに描かれた見覚えのあるイラストが目に留まり、思わず二度見をした。マシュマロが大好物のキャラクター「マシュマロイヌ」のものだった。
電話を切って戻ってきた彼女に、動揺を隠しきれないまま話しかける。
「それ、どこで買ったの?」
「あ、このケースですか?自分で作ったんです」
自分で?と聞き返そうとしたとき「辻野さん、会議始まってるよ!」とミーティングルームから彼女を呼ぶ声が響く。
「そうだった、今日火曜日か」
彼女はひとりごとを言いながら、慌てて席を立った。
*
会社を出ていつものようにひとりで電車に乗り込む。向かい側に座るサラリーマンが無表情に膝をゆらゆら揺らしている。
夜の車内は、生気を吸い取られそうで苦手だ。
せめて楽しいものを視界に入れようと、インスラグラムのアプリを立ち上げる。
フィードを眺めていると「あっ」と声が漏れそうになり、思わず息を飲んだ。
スマホケースだった。
しかも彼女が持っていたものと、全く同じデザインのものだ。
私が毎日投稿を楽しみにしているイラストレーターの人が、他のグッズと一緒に、ある雑貨屋で販売されるようになったことを綴っている。
投稿は10分前のものだった。
彼女は私が退社するとき、まだ会社にいただろうか。記憶を辿るも、誰が残っていたかはっきりと思い出せない。
もやもやした気持ちを抱えたまま視線を画面に戻すと『最後に』とまだ続きがあった。
『仕事を言い訳に、自分のやりたいことを後回しにしていたわたしの背中を押してくれた人がいました。
ある日、その人にお願いされた仕事の書類に付箋を貼って返したんです。マシュマロイヌのイラストを添えて。
そしたら、彼女はこう言いました。“すっごく上手だね!私、この犬を見ていると幸せな気持ちになれるの”って。
わたしが描いているって知らないから言ってくれたと思うんですけど、嬉しかったなあ。自分の絵が、こんなに身近な人を幸せにしているんだ、って思って。
彼女に喜んでもらいたくて、その一心でイメージ通りのグッズが作れるようにずっと試行錯誤してきました。
いつも気にかけてくださる、優しい先輩です』
ああ、彼女だったのか。
すべての疑問が解けた途端、胸の奥がじんと熱くなる。投稿の最後に添付されたイラストには、マシュマロイヌと私によく似たボブカットの小さな女の子が、一緒に手を繋いで踊っていた。
子どものときから変わらないこともいっぱいある。
だけど、そんな自分の不器用な部分も、今は少しだけ許してあげられるような気がした。
久しぶりに、マシュマロ買おうかな。
腕時計で針の位置を確認する。駅に着いたら急いでスーパーに駆け込もう、と思った。
文=ひらいめぐみ 編集=山越栞