
おじさんは、いつもクッキーを食べている。おじさんと言ってもその辺にいるおじさんではなく、おかあさんのお兄ちゃんだ。
「そんなに食べたらだめなんじゃない?」
わたしが眉をひそめると「いいんだよ、大人だから」と一蹴された。
「でもおかあさんが、ごはんの前にお菓子食べちゃだめだって」
「奈津美はまだ子どもだから胃が小さいんだよ。このクッキー3枚食べたらお腹が半分埋まるとする。俺の場合は3枚食べても5分の1しか埋まらない。そういうこと」
「でもごはんの時間は『食べ盛りなんだからいっぱい食べな』って言われるもん。食べ盛りってことは、大人よりいっぱい食べられるんじゃないの?」
「なるほど。奈津美は賢いなあ」
おじさんは適当な相槌を打つと、またクッキーをむしゃむしゃと食べながら、タブレットにペンを滑らせ始めた。集中スイッチが入ったときの空気だ。
漫画家のおじさんの家には棚に収まりきらなくなった漫画のタワーが部屋のあちこちに乱立している。
部屋のモノを極力少なくしたがるおかあさんとは正反対だ。わたしに対する、ほどよい関心のなさも。
*
今朝、お兄ちゃんのお下がりのだぼだぼのTシャツにジーパンを履いて出かけようとしたら、おかあさんが血相
を変えて玄関までやってきた。
「そんなだらしない格好しちゃだめよ。こないだ買ってきたワンピースもあるじゃない」
「何でいつも文句ばっかり言うの?赤ちゃんじゃないんだから、好きな服を着させてよ!」
二人の兄に続いて生まれたわたしは、待望の女の子だったと言う。でもそんなの知らない。わたしにだって自我
があるんだから。
近所の図書館へ行くつもりだったけれど、むしゃくしゃした気持ちが収まらず、気づいたら二駅先のおじさんの家の前に来ていた。
*
部屋にある漫画を片っ端から読んでいるうちに夜がふけていき、凪いだ海を泳いでいるような、穏やかな時間が流れていく。
その空気をパリンと割るように、電話の音が鳴り響いた。
「ああ、いるよ。ごはん?やべ、もうそんな時間か」
「……ごめんごめん、これから食べさせるわ」
相手の声は聞こえないのに、明らかに怒られているのが分かる。おじさんは電話を切り、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコーラをぐびぐびと飲んだ。「よし。ピザでもとるか」と言った。
窓の外を見ると、いつのまにか真っ暗になっている。街灯の多いわたしの街とは全然違う。知らない世界にいるみたいだった。
「ううん。帰る」
ピザは好きだ。いつ食べても怒られないクッキーも、冷蔵庫にいつでも入っているコーラも。だけど、おかあさんの言うことが分からないほどわたしも子どもじゃない。
重たい腰を上げて、読み散らかした漫画を元の位置に戻した。
家まで送ってくれるおじさんと電車に乗り込み、10分もしないうちに最寄駅へ着く。
街灯の光に小さな虫たちが群がり、どこかの家から犬が吠えている。道すがら、大きな声で笑っているサラリーマンとすれ違う。よく見たらワイヤレスイヤホンをしている。
普段出歩かない時間のいつもの街は、知らない顔をしていた。
曲がり角でようやく家の近くまで来たことが分かったとき、おじさんは「あ」と小さく声を漏らした。
わたしも同じ匂いに気づいて、にやりと笑みがこぼれた。喧嘩した日の晩ごはんは、いつもカレーだ。
「俺も食べて帰ろうかな」
「家出るまでクッキー食べてたじゃん」
「大人だからいいんだよ」
こうやっておじさんに言い逃げされるたび、早く大人になりたいと思う。
「ただいまあ」と無理をして明るい声で玄関の扉を開けると、スパイスの香りが鼻の奥まで通り抜けていく。
ぐう、とお腹が鳴った。
文=ひらいめぐみ・編集=山越栞