
「坂本くんさ、こないだネギが落ちていた話聞く?」
得意先からの帰り道、浜田さんのいつもの脈絡がない話が始まる。部下である僕は「聞きたくないです」と言えるはずもなく、ちょっとだけ歩くペースを落としながら「どうしたんですか?」とわざと神妙な面持ちで浜田さんの顔を覗き込んだ。
「ネギのさ、緑の部分ってあるじゃん」
「ありますね」
「あの捨てていいかどうかよく分からないところ」
「はい」
「あそこの部分だけ道路に落ちてたんだよねえ」
「え、下は近くになかったんですか?」
「なかったんだよそれが。何でだと思う?」
僕は分かっている。これには答えがないことを。浜田さんは部下が面白いこと言ってくれたらいいなくらいの軽い
ノリで聞いているのだ。
「本当は全部落ちてたけど、白い部分だけ猫とか犬が食べちゃったんじゃないすか」
「そしたらどうしてネギは落ちていたんだろう」
「たしかに……。で、正解は何なんですか?」
「それはネギにしか分からないよねえ」
「そうっすね……」
真面目に答えようとしていつもこれだ。しかし浜田さんはもうネギには興味がなくなっているようだった。こんな気まぐれな大人なんているのか、と新卒で入社した2年前はびっくりしたものだ。
「坂本くんはそういうものって見つけたことない?」
「うーん。あ、小さい女の子の片っぽだけの靴とかなら数日前に見ましたよ」
「それはさあ、女の子が落としちゃったんじゃない。坂本くんってこう、風情って言葉を知らないよね」
「でもドラマがあるのがその片っぽの靴で分かるじゃないすか。ただの靴、ってだけじゃなくて。女の子の他にお母さんかお父さんもそばにいて、抱っこしてもらってる時に足ぶらぶらさせて落としちゃったのかなあとか」
「なるほどね。そういうことならセンスのある回答だ」
「ありがとうございます」
「さっきのお得意さんの担当者のひと、クリーニング屋のタグつけっぱなしだったね」
「あっ、それめっちゃ思いました!なあんだ、浜田さんも気づいてたんですね」
「あの人いっつもつけっぱなしなんだよ」
「教えてあげたらいいじゃないですか」
「それは無粋かなあって思っちゃうんだよね」
「いやいやいや!」
ずっとタグをつけっぱなしにしている担当者の背中を思い出す。黙っているのはやっぱりちょっとかわいそうだ。
「じゃあ僕が代わりに次行った時言いますよ」と返すと浜田さんは優しい顔で微笑んだ。
浜田さんは、来週会社を辞める。さっきの得意先ですべて僕への引き継ぎが終わり、実質今日が最後の出勤日だった。よく定年までこんなキテレツな人を会社は受け止めてくれたなと思うが、浜田さんが来週から向かいのデスクに座っていないんだと思うと、急に心がぽっかりと空くような気持ちになった。
「何か寂しいっすね」
「秋だからじゃない?」
「秋だからですかね」
「そんな君にはこれをあげるよ」
そう言ってポケットから黄金色の飴を取り出した。
「べっこう飴だ」
「べっこう飴だねえ」
口の中でカラカラと飴が転がる音が耳を伝う。西に傾きかけた陽の柔らかい光が、葉の色を変えた木々の隙間から注ぎ込む。
浜田さん、最後までワケわかんない人だったな。
まるで夢の中にいるような美しい景色の中で、べっこう飴はゆっくりと溶けていく。浜田さんはというと、めちゃくちゃにバリバリと音を立てて飴を噛み砕いていた。
文=ひらいめぐみ・編集=山越栞