
母さんが、ある日突然、トイプードルを抱えて帰ってきたときは驚いた。
それは、僕が春から東京の大学(第一志望のところではないけど)に進学することが決まって、卒業式を控えた頃だった。
「息子が家を離れて寂しくなるから」と想像した人もいるだろうが、残念ながら僕の家は東京からぎりぎり外れているぐらいの、言ってしまえば首都圏エリアだ。特にその必要もないと思ったので、一人暮らしをする予定もない。
つまり、母さんは単純に、「飼いたい」という理由でそいつを抱えて帰ってきた。もちろん、息子の進学が決まって気持ちが楽になったこともあるのだろう。それには理解を示したい。
犬の名前はショコラ。もちろん、母さんがつけた。茶色くて、ふわふわしていてかわいいから、だそうだ。なんて単純。そして女子感。
当時は少し失望したけれど、3年経った今は、僕も父さんもためらわずに「ショコラ」と呼び、たぶん人並みにそいつをかわいがっている。
スイーツな名前の割に、ショコラは思慮深い雄犬に育った。
オスワリをしたときの背筋のととのいや、散歩時のオーラには、威厳すら漂っている。夏目漱石の『吾輩は猫である』のように、ショコラも我々人間のくらしを見て、なにか思うところがあるのだろうか。
“俺の名はショコラ。トイプードルだが、茶色い毛色に惹かれた飼い主が安易にこのような名前をつけた。ショコラは、チョコレートのフランス語読みらしい。
しかし我ら犬は、それを食べると死に至る可能性があるため、その味を知ることができない。否、死すら恐れないという意思をもって味見をした結果、華
やかに散っていくのも乙かもしれない…”
など考えていて、ばかばかしくなってきた。
そして今日、なんと母さんが、再び何かを抱えて帰ってきた。ベージュの色をしたうさぎだ。「ショコラが寂しいかなと思って」と、言い訳にもなりきれていない言い訳をして、うさぎとショコラの頭を同時になでた。
こっちの名前はどうせ「キャラメル」とか「きなこ」になるだろうな、と思いながら、なんだかんだ自分もその「キャラメルorきなこ」をショコラのように愛でてしまうだろうと、諦めに似た感情を抱く。
父さんも僕も(たぶんショコラも)、結局の所は、母さんが嬉しそうに笑っていればそれで満足してしまうのだ。単純だけど。
文=山越栞